第1回 医療現場における意思決定-医療者と患者のすれ違い-
『人は絶えず合理的な選択を行うわけではない』という前提に立ち、心理学的な要素をふまえて人々の活動や行動を分析する「行動経済学」が近年注目されています。その理論を生かして、医療現場における意思決定や行動変容における問題の解決をはかる分野を「医療行動経済学」と呼びます。医療行動経済学の考え方を、医療者と患者とのコミュニケーションにも取り入れることで、患者が治療方針等について、よりよい選択ができる可能性があります。
そこで、すぐわかる音声講座「医療現場の行動経済学」では、治療方針等の意思決定を行ううえで生じることがある、医療者と患者とのコミュニケーションにおけるすれ違いを、医療行動経済学の視点で読み解き、具体的な解消法を紹介します。本コンテンツの第1回では、医療者と患者がすれ違う要因となる「認知的要因」について説明します。
現代医療では、患者が自分自身の状況を十分に理解し、納得して治療の意思決定を行えるように、インフォームド・コンセントだけでなく、医療者と患者が各々の立場から互いに最適な働きかけを行い意思決定する「シェアード・ディシジョン・メイキング」という概念が重視されるようになっています。一方で、実際の医療現場では、こうしたプロセスを経ても、お互いに納得のいく同意が得られなかったり、「十分説明したのに、なぜ決められないのだろう」「どうして科学的根拠に基づいた治療法ではなく、根拠のない民間療法にこだわってしまうのだろう」などと感じたことはないでしょうか。
医療行動経済学の視点でみると、こうしたすれ違いの背景には、人がものごとを理解したり、判断したりする際に大きな影響を及ぼす「認知的要因」があると考えられます。認知的要因は、患者だけでなく、医療者にも存在する可能性があります1-3)。
まずは、医療者側の認知的要因について紹介します。医療者が特に注意すべきことは、「患者を合理的な意思決定ができる存在」とみなすことです3)。実は、人が合理的に判断できるケースは限られており、与えられた情報に対して直観的に反応し、非合理的な選択をしてしまうことも少なくありません3)。そのため、『患者は医学的に正しい情報があれば合理的な意思決定ができる』という前提でコミュニケーションをとってしまうと、「十分説明したはずなのに、どうして理解できないのだろう」などと感じてしまうことがあり、これを「限定合理性」と呼びます3)。
次に患者側の認知的要因です。行動経済学では、「合理的な意思決定からある一定のルールで逸脱してしまう傾向」を「バイアス」と呼びます。患者の意思決定に影響を与える認知的要因には、認知バイアスと呼ばれる、さまざまなバイアスがあります。特に医療者と患者のコミュニケーションに影響を与える、損失回避、現在バイアス、現状維持バイアス、サンクコストバイアス、利用可能性ヒューリスティックの5つについて順番に説明します。
①損失回避
自分にとって都合がよい「利得」が得られることよりも、自分にとって都合が悪い「損失」が発生してしまうことを大きく嫌う傾向のことです1)。例えば、1万円得するよりも、1万円損した時の方が心理的な影響は大きいことがわかっています。損失回避は、金銭的な損失の回避だけでなく、自分にとって都合が悪い行動や状況を回避するなど、さまざまなケースがあります。医療における例としては、外用薬による治療を手間がかかる損失とみなしてしまうケースが挙げられます2)。特に皮膚炎などで患部が全身に広がっている場合は、塗る手間が大きく、家族や同居者の手助けが必要になります。そのため、治療により得られる利得よりも、手間がかかるという損失の回避を優先して、治療を中止してしまうことがあります2)2>。
②現在バイアス
「今は決めたくない」といった、いわゆる先延ばしを意味します1)。人は将来のことについては計画的で忍耐強い意思決定ができるものの、目先のことについては実行を先延ばしにしてしまうことがあります1,2)。例えば、肥満は様々な生活習慣病のリスク因子として知られていますが、肥満を解消するためには運動や食生活の改善が必要であることを理解していても、すぐに行動を起こさないケースが挙げられます。
③現状維持バイアス
文字通り現状を変えたくないというバイアスです1,2)。行動経済学において、「利得」と「損失」の判断を分ける際の基準点を「参照点」と呼びます2)。現在を参照点として捉え、現在からの変化を損失とみなしてしまうことが、現状維持バイアスが生じる要因と考えられます1)。特に、医療における意思決定では、参照点である現時点からの変更が、病状の悪化や死の受け入れを意味することが多いため、変化を受けいれることが苦痛を伴う損失とみなされてしまうことがあります1)。例としては、「症状の悪化を自覚しているにもかかわらず、治療を受け入れない」といったケースが挙げられます。
④サンクコストバイアス
その選択によって「損失」が発生すると考えるバイアスです1,2)。サンクコストとは、既に支払ってしまった後で回収できなくなった費用である埋没費用を意味します1,2)。例えば、抗がん剤治療を続けてきたものの、効果が十分に見込めなくなったとき、医師は患者に治療の中止を提案します。その際、「治療を中止することで、これまで行ってきた治療が無駄になってしまう」と考え、患者が中止を受け入れないケースが挙げられます2)。
⑤利用可能性ヒューリスティック
正確な情報を探そうとせずに、すぐ手に入る情報を重視したり、正確な情報があっても、それを利用せずに身近で目立つ情報を優先したりしてしまうことです1,2)。例えば、「〇〇を飲んでがんが消えた」などのインターネット上の広告に依存してしまうケースが挙げられます。こうした広告を目にすることで、医師が「医学的に有効性が証明されていないので、効果は期待できません」と伝えても、「一度試してみたいです」と言って、医師の助言を受け入れないことがあります。
このように、認知的要因には様々なものがあり、医療現場における意思決定において、こうした認知的要因が患者のみならず医療者にも生じるために、すれ違いが生じてしまうことになります。そのため、今回紹介した認知的要因が医療者と患者の双方に存在する可能性を念頭におくことが、すれ違いを解消するための第一歩になると考えられます。
続く第2回では、医療行動経済学の手法を用いた認知的要因に対する対処方法について紹介します。
参考文献
- 1)大竹文雄・平井啓 編著. 医療現場の行動経済学:すれ違う医者と患者. 東洋経済新報社. 2018
- 2)大竹文雄・平井啓 編著. 実践 医療現場の行動経済学:すれ違いの解消法. 東洋経済新報社. 2022
- 3)医学界新聞 連載 行動経済学×医療[第1回]意思決定とは? 合理性を前提とした医療の限界
(https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2017/PA03237_06)
KKC-2023-00489-2
2023年8月更新
※次回の更新は、8月上旬予定です。
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